「感じるということ」などと言っても小林秀雄のような、しちめんどくさい議論を展開するつもりはない。
ただこの年になると、素直に感じることがもっとも大切だが、また、もっとも難しいことのように感じられてくる。
これまでまず知ること、理解することにばかり軸足を置いた日常を強いられてきたからかも知れないし、最近のマニュアル化された社会では、素朴な人間の営みが消えてきていることもその一因かも知れぬ。
きっかけは最近読んだロータリー仲間の著書にある。もともとは地質学者だが、最近だされた随筆集をメンバーは皆頂いた。
その中に野村胡堂に触れた章があった。野村胡堂は「あらえびす」という別の筆名でレコード音楽の評論を書いており、その名曲決定版は生演奏に接しられぬ、当時のクラシックファンには必須の入門書だった。また、名画鑑賞には福島繁太郎という画商の『印象派時代』、そして『エコール・ド・パリ』というバイブルがあった。
つまり僕が言いたいのは、我々世代は、本物に生で接する前に頭の中は、この絵の見所は、また、この曲のサワリはなど基礎知識で充満していたのだった。
やがて本物を拝む機会が到来した時、当然の事ながら無我夢中でひたすら感激するのみだった。だが、今冷静に考える時、それがどこまで本当の感動であったか心もとなくなる。
意地悪く言えば、すでに知識として持っている作品の魅力を、ただ確認したに過ぎないのではなかったろうか。要はもし同じ作品に予備知識なしに接したとしたら、果たして同じように感ずることが出来たろうか、という疑念と不安である。
自分で創作を、また演奏を試みることも、感性を養う一つの方法かもしれない。
また、子供の頃、ある高名なモダーンアートの画商から言われたことも思い出す。
「坊ちゃん、絵の良さは所有してみないと本当のところは分かりませんよ。自分でお金を出せばどんな絵が本当に自分の感性に訴えるか、平たく言えば金を出す価値があるかどうか、見る目が自然と養われますよ」
残念ながら僕にはコレクターになったり、ヨーロッパの音楽祭に入り浸るだけの資力には乏しい。ここのところは自分の手の届く範囲の作品に数多く接し、その時々の感じを素直に味わうコツを身につけていくことだろう。
これを敷衍(ふえん)して言えば、旅行で新しい風物に接する時も、さらには人々と付き合っていく時も、絶えず、感じることを最優先すれば、それだけ人生も豊かになっていくのではなかろうか。
北里大学名誉教授
アンチエイジング医師団代表
NPO法人 アンチエイジングネットワーク理事長
NPO法人 創傷治癒センター理事長
医療法人社団 ウィメンズヘルスクリニック東京 名誉院長